2021年、インド政府系の牛保護機関「Rashtriya Kamdhenu Aayog(RKA)」が、全国規模のオンライン試験を企画していました。
その名も「牛科学試験(Kamdhenu Gau Vigyan Examination)」。
一見すると「牧畜や農業を支える科学教育の取り組み」に聞こえますが、配布された学習資料を読んだ人々は驚きました。
そこには「在来牛の乳には金の微粒子が含まれる」「牛の屠殺によって“アインシュタイン苦痛波”が発生し地震を引き起こす」といった、まるで神話のような記述が並んでいたのです。
当然、国内外から強い批判が起こり、この試験は延期、のちに無期限保留となりました。
複数のメディアが確認したところ、確かに資料はRKA公式サイト上に公開されており、内容も報道の通り。
ただし、これらの主張には科学的な裏付けが一切なく、政府の他機関も「在来牛と外来種の乳に金の差は認められない」と否定しています。
「牛が地震を起こす」などという説に至っては、物理学の常識から完全に逸脱しています。
とはいえ、この出来事を単なる“珍ニュース”として笑い飛ばしてしまうのは早計です。
問題の根は、もっと深いところにあります。
インドでは近年、ヒンドゥー至上主義的なナショナリズムのもとで「伝統」「文化」を教育に組み込み直す動きが強まっています。
教科書から「進化論」や「元素周期表」が削除・簡略化されたという報道もあり、民族的アイデンティティと科学教育のあいだで緊張関係が生まれています。
この“牛科学試験”も、そうした文脈の中にあると言えるでしょう。
つまり、これは単なる“誤った科学”ではなく、「信仰や文化を国家の物語として制度化しようとする動き」の一部だったのです。
そこには、宗教と政治、教育とイデオロギーが絡み合う複雑な背景があります。
私たち日本人にとっても、これは決して遠い話ではありません。
SNSで拡散される健康情報や“科学っぽい言葉”の裏に、どれだけ根拠があるのか。
トレーニングや栄養の世界でも、「エビデンスに基づく」という言葉が軽々しく使われながら、その実態が伴っていないことがあります。
「誰が言っているか」ではなく、「どのように確かめられたか」を問う視点が、今こそ求められているのだと思います。
科学とは、信じることではなく、確かめ続ける営み。
信仰や文化は人を支えるものであり、決して否定すべきものではありません。
しかし、それらが“科学”の名を借りて混ざり合うとき、社会は容易に誤った方向へ進んでしまう。
このインドの出来事は、その危うさを映し出した鏡のように感じます。
私たち一人ひとりが「なぜそう言えるのか?」と問い直すこと。
その小さな姿勢こそが、科学リテラシーを守る最前線にあるのだと思います。


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